「ローザ・パークス自伝 」

hippydonky212005-11-01

少し前の記事ですが

読売新聞より
 ローザ・パークスさん(米黒人公民権運動家)米CNNテレビなどによると24日、デトロイトの自宅で死去した。92歳。

 1955年12月、人種差別の根強かった南部アラバマ州モントゴメリーでバスの座席を白人乗客に譲るのを拒否し、白人優先を定めた市条例違反容疑で逮捕された。逮捕への怒りは黒人住民によるバスの乗車拒否、さらにはマーチン・ルーサー・キング師を中心とする全米規模の黒人解放運動へと広がり、「公民権運動の母」と呼ばれた。

 50周年に当たる今年末、記念行事が全米各地で予定されていた。57年からはデトロイトに移り、黒人の子供への教育活動などに携わった。

そのローザ・パークスさんの棺がワシントンの議事堂の中におかれ、弔問客が訪れています。
アメリカが国家をあげて最大級の讃辞を示しているわけですが、女性では初めてだそうです。
国家による差別政策に抵抗し、そして抵抗運動を担った人を、現在のアメリカの自由で平等な社会のシンボルとしてしているわけですが、これはどういったことを意味しているのでしょう。あの時代、もしかすると差別政策は仕方がないことだったのかもしれない。しかし、その状態を歴史的に肯定することなく、今の価値から鑑みて、今ある自由で平等な社会は、その時代に、公然と国家に立ち向かった方たちの歴史にこそ存在すると今あるべきアメリカが国家として考えているからに他ならないでしょう。
一方、その論理を逆転して見たらどうでしょう。どこかで聞いた言説だと思いませんか。
当然我が国で靖国A級戦犯を擁護する言説です。
あの時代はそれで仕方がなかった。国の進路として間違ってはいなかったと肯定してしまう。だからこそ今の平和があの人たち(A級戦犯の人たち)の死が礎となっていると思ってしまう。やっぱり間違ってはいませんか。
あの時代に抗し、治安維持法で(アメリカで言えば黒人差別法で)牢獄に入れられた人たちがいっぱいいたわけです。帰ってこなかった人たちがその大部分でした。アメリカ的に考えれば、その人たちの屍の上にこそ今の日本の平和と自由と民主主義があるわけです。もちろん兵として死した人たちや沖縄で、そして空襲で死した人の屍を基礎に今の平和があることが当たり前のこととして振り返ればどうして靖国が平和の基礎となり得るのか?
国に対して誤っていると抵抗したが故に、そして無抵抗であっても死した国民に謝罪することなく、無批判に「必然という歴史」という理屈を受け入れることがどうして正しいのでしょう。靖国問題は必然的に国内問題なのです。
そう考えれば、アメリカのまねっこが得意な現首相やぞろぞろと徒党を組んで参拝した国会議員たちが、まず第一にこうべをたれなければならないのがいったい誰に対してなのかが分かろうというものです。


ローザ・パークスさんの棺は彼女が座ったその当時のバスに乗せられて運ばれ埋葬されるそうです。むむむ。アメリカ的と言えばアメリカ的か。