短信 (回復可能なものと不可能なもの)

mainichi-msnより
 小6同級生殺害事件が起きた長崎県佐世保市立大久保小6年の複数の保護者が毎日新聞の取材に応じ、4時間にわたって事件や学校への思いを語った。
(中略)
 ある保護者は、PTA総会で校長が言った「心の教育を学校でやっていても問題のある家庭には届かない」という言葉が頭から離れない。「責任を保護者に転嫁している」と感じたからだ。
 学校側は事件の背景になった交換日記を禁じ、図工や家庭科の授業での刃物使用を見合わせ、毎月1日を「整理整とんの日」にした。そして度々カウンセリングや心理療法のお知らせを家庭に配布した。
 「形だけで学校は本気で子供と向き合っていない」「うわべばっかりでなく、その前にやることがあるのでは」。保護者には違和感が募った。
 学校側の説明不足は子供たちに対しても同様だった。加害女児を「犯人」と呼んだ児童に「友達のことを犯人なんて言うな」と怒鳴る教師。校長は処分決定の翌日、6年のクラスで加害女児をかばうような説明をし、子供たちから「なぜ悪いことをした子をかばうのか」と強い反発を受けた。
 ある女児は自宅でつぶやいた。「なぜ大人たちは一生懸命加害女児ばかり助けようとするのか。友達は死んじゃったのに……」。子供たちは“大人たち”の態度に疑念を持ったままだという。
(後略)

回復可能である生と回復不可能な死。二つを分かつものにわれわれはいつも自問し続けたと思います。
そしてわれわれは回復可能な生の側に重きをおいていたのは、ある種生きている側の当然の帰結でした。回復不可能なものを想い嘆くのは、残された関係者にとっての、これからの自分たちの生に対する対話と憂愁のためです。そして回復不可能な死は進歩する社会にとっては非生産的な行為として次第に排除され、忘れ去られていくものでした。
都市化と核家族化の進行により身の回りに死の状況が気薄になり、身の回りからも排除されていきます。
しかし私たちはもう一度回復不可能な死と向き合わない限り、自己と他者の生をも気薄もまますごしていくのかもしれません。
特に犯罪行為による被害者の死と加害者の生の対比という悩ましさは、回復不可能な死の感性の排除によって、加害者の側にもそして回りの人たちにも生と死に対する尊厳すら失わせるもののような気がします。
未来の生をはぐくむ教育を担当していろ教師の方にはそう願わずにはいられません。
それが犯罪や戦争を防ぐ盾になると思う今日この頃です。