短信  (できの悪い喜劇など)

 共同通信社が実施した全国電世論調査で、現行の学習指導要領が掲げる「ゆとり教育」について75・1%が「見直すべきだ」とした。「見直すべきでない」は10・3%にとどまり「どちらともいえない」は13・8%だった。
 見直しを求める理由は「学力が低下した」が最多。見直すべきではないとした人では「ゆとり教育の考え方は間違っていない」が過半数だった。
 中山成彬文部科学相は指導要領を全面的に見直すよう中教審に要請しており、世論の支持の高さは中教審の審議にも影響を与えそうだ。調査は5日から6日にかけて実施した。
 「見直すべきだ」と答えた人に、選択肢から理由を選んでもらうと「ゆとり教育の影響で学力が低下した」が43・1%。「学力をつけるにはある程度の『詰め込み』が必要」が29・1%、「学校でしっかり教えないと塾通いが増える」が22・4%だった。

子供を持つ親たちは自分の子供はやればできると思っていたいものです。だから学力の低下は教育のせいにしたいという単純なものでしょう。
それはともかくゆとり教育の裏の意味とは何だったのかを考えてみましょう。


日本の進むべき道としては、経済界の要請だけではなく国民の大多数は知的財産立国を目指すべきだと思っているのではないでしょうか。そのトップに君臨するアメリカは国民の学力低下に悩んでいるでしょうか。世界規模のテストの平均の結果などどうでもいいと思っているのじゃないですか。知る人ぞ知るアメリカの教科書の内容の簡単なこと。数学など高校で日本の中学レベルのことがあったりします。しかしアメリカは世界トップの知的財産立国です。要はトップ5パーセントに絶大なる自信があるのです。英語もままならない移民たちの平均などで騒いでみてもなにも変わらないことをよく知っているからです。
さて日本です。高度経済成長を支えた日本の教育とはどんなものだったのでしょう。
大学の教育学のおさらいです。
池田内閣の所得倍増計画のもと中教審が示したのは、日本を支えるブルーカラーの育成です。つまり普通科と工業、商業高校の分離により、高卒と同時に生産現場を支えられる人材を作り出すことです。そして普通科から進学する10パーセント余りの大学進学者のホワイトカラーの存在があれば日本は成長していけると。
しかし高度経済成長の末の中流社会は、親たちの怨念のごとく学歴社会の勝ち組を目指す子供たちの群れを作り出したわけです。受験戦争。そして高度成長と生活の余裕からくる大量の大学生の誕生です。そこにあったのは何よりも平等であれという社会の要請です。(戦後民主主義悪平等かどうかはさておき)
全国均一のカリキュラムのもと個人の能力に関係なくある水準のことをまなばせるという平等化の要請は、当然のごとく落ちこぼれの出現を伴ったものでした。生活に必要な、いえ生産現場に必要な最低限の知識すら持たずに、そして自己の尊厳すら奪われた子供たちの出現は、荒れる学校に代表され、社会に脅威をもたらすものであったわけです。(大量のモラトリアム大学生に業を煮やしてエリート学者養成で大学院充実を唄ってみてもそこに出現したのは大学院とは名ばかりの大学院だったりしたわけですけど。)
ならどうするか。徹底した能力主義教育によって落ちこぼさない、必要のない人に必要以上の知識を詰め込まない。つまりゆとり教育とは個性重視のお題目とは関係のないものなのです。それこそが日教組に代表される平等主義に対抗すべく文部官僚が目指したかったエリート教育そのものなのです。
産業界の知的立国構想やジャパンアズナンバーワンに酔いしれたい保守派の要請にほかならないのです。
ところがここで頭の空っぽの国粋主義政治家の登場です。国際平均で日本が1番ではないのはけしからんと。ましてや韓国に負けるなど許されないと。平均などあくまで平均でしかないのに。(トップのスウェーデンなど日本以上に授業時間が少ないそうですが、ここでは関係ない??)
さてさて文部官僚の野望は頓挫するのでしょうか。賛否は別にしても事の成り行きはもうできの悪い喜劇でしかないじゃありませんか。